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装幀という仕事 アーカイブ

2008年10月11日

装幀という仕事 貝原浩--高二三 2008年10月中旬号


kbs081002_01.jpg『済州島現代史』2005年
kbs081002_02.jpg『一冊まるごと在日朝鮮人』1990年


kbs081002_03.jpg『キム・ミンギ』1987年
kbs081002_04.jpg『済州島四・三蜂起』1988年


kbs081002_05.jpg『順伊おばさん』2001年
kbs081002_06.jpg『越境する民』2001年


高二三(新幹社代表)
 明石書店の編集部にいた時、貝原浩さんと知り合い、気が合いました。一九八七年に新幹社を始めた時、貝原浩さんを訪ね、平野甲賀さんと晶文社の本の話をしながら、以降、新幹社の本は、原則、貝原浩さんに装丁していただくことになりました。約一五〇点です。
 出版の前に貝原浩さんを訪ね、酒を呑みながら、本の内容を伝えます。年に数回は朝帰りになりました。書名がちがうように、デザインもそれぞれちがうのですが、遠目で見ても新幹社の本とわかる、それが私の希望でした。それを貝原浩さんに託したわけです。
 中でも気に入った本を紹介します。『済州島四・三蜂起』、これは貝原浩さんが色校正を見た後、デザインにメリハリをつけるためにフィルムをカッターで削りながら完成させたものです。背が、左に2ミリぐらい斜めになっていて製本所がどうしたらよいかと指示を仰いできました。初期の作品の中では『キム・ミンギ』『一冊まるごと在日朝鮮人』がいい作品だと思います。貝原浩さんの気もぎゅっと込められています。
 中期の作品で印象深いのは『順伊(スニ)おばさん』『越境する民』です。『順伊おばさん』の訳者・金石範さんはいつも田村義也さんの装丁で本を出します。田村さんへのつよい対抗意識の中での作品で、貝原浩さんの負けず嫌いが集約されています。最後の装丁が『済州島現代史』になりました。済州島の海や山や空が貝原浩さんにこのように残っていたのだなと、縁を改めて思います。

2008年9月11日

装幀という仕事 貝原浩--佐藤文明 2008年9月中旬号

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左上から『戸籍がつくる差別』1984年刊(新装版は1995年)、『ひとさし指の自由』(社会評論社)1984年(新装版は1985年)、『戸籍』(現代書館)1981年刊、『戸籍うらがえ史考』(明石書店)1988年

佐藤文明(評論家)
 戸籍の仕組みを疑い、新宿区役所(戸籍係)を辞めたのは一九七二年。「いつか戸籍の問題を世に問わねば」と、使命感を抱きながらも、伝え方の難しさに直面。途方に暮れてほぼ一〇年。現代書館から「ビギナーズシリーズで書いてみないか」と誘われたのはそんなときでした。イラストで伝える思想書として話題のシリーズ。「これならいけるかもしれない」と直感しました。もちろん、ナイスなイラストレーターと出会えれば、の話です。
 貝原浩、ぼくは彼の画才にも感嘆しましたが、それ以上に驚嘆させられたのが物事を把握する直観力のすごさ。『戸籍』は文章に絵をつけた本ではありません。ぼくらはおなじ場所でジャズ・セッションのように文と絵をキャッチボールしつつ、作品を作り上げた。
 幸せな経験でした。本は評判を呼び、戸籍の問題点を広く訴える成果を挙げます。『戸籍』の装丁は貝原ではないが、彼のイラストがそのまま使われているので印象的な表紙になっています。彼の装丁本としては『戸籍がつくる差別』『戸籍うらがえ史考』です。前者は運動と結ばれて版を重ね、新装版が出ました。問題の深さ厳しさをまず訴え、読者を獲得した新装版の装丁では広がりを持たせています。同様の装丁が『ひとさし指の自由』です。編集委員会編の本ですが、当方の編著。指紋押捺拒否運動のバイブルとして版を重ねます。新装版を含め装丁者は彼。ぼくらは運動を通じてもセッションしていたのです。

2008年7月11日

装幀という仕事 貝原浩--名取弘文 2008年7月中旬号

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左上から『おもしろ学校開校記念日』(有斐閣)1984年刊、『教室から世界へ飛びたとう』(筑摩書房)1987年刊、『こどものけんり』(雲母書房)1996年刊、『教師という快楽』(雲母書房)1997年刊、『ナトセンのこれが教師だ』(雲母書房)2005年刊

名取弘文(おもしろ学校理事長・元小学校教員)
 小学校の教員になり、五段階相対評価はおかしい。知能テストは差別的だなどの闘いを展開していたのですが、校庭の隅に畑を作ってキュウリやトマトを育てているうちに、モノ作りをもとにした授業がおもしろそうだと気付きました。そこで家庭科の専科の教員になったのですが、これにハマりました。
 この授業の記録を「おもしろ学校」のシリーズとして出版するのですが、画伯と呼ばれていて、いつも陽気な酒を呑んでいる貝原に装幀をお願いしたのです。できてきたのが『おもしろ学校開校記念日』。校舎の屋根に乗り、皿と箸を持って踊っている絵です。私の似顔もそっくり。教育書というと、くそまじめ、りくつだらけ、つまらないが相場ですが、「おもしろ学校」シリーズは、軽はずみ、オリジナル、受けがいい。ぴったりの装幀です。
 『教室から世界へ飛びたとう』では色彩がおちついていますが、こどもの表情がいきいきしてて、これもいい。貝原の字も味がある。
 『こどものけんり』は明るい色で踊っているこどもがおおぜい。こどもの世界はこうであって欲しいと貝原も望んでいるのです。『教師という快楽』で泣いているのはご幼少の頃の画伯でしょう。『ナトセンのこれが教師だ』は一変して、幾何学的なデザインで渋い。(最後の仕事になってしまった!)
 打合せや注文は一度もしなかったのに、私の言いたいことをピタリと描いてくれました。

2008年11月11日

装幀という仕事 貝原浩--横山豊子 2008年11月中旬号

kbs081102_01.jpg『自然食通信』創刊0号 1981年kbs081102_02.jpg
『自然食通信』創刊0号 特集予告


kbs081102_03.jpg『自然食通信』4号kbs081102_04.jpg『百姓になるための手引』1986年

kbs081102_05.jpg『いのちにやさしいお産』初版1996年kbs081102_06.jpg『しょうがい児の母親もバリアフリー』1999年


横山豊子(自然食通信社)
 1981年 4月の創刊を目指し準備を進めていた雑誌『自然食通信』のエディトルアル・デザインを頼みに行ったのが、貝原氏との初めての出会いだった。えらの張った顔、濃い眉、人を射抜くような大きな眼。こちらがやや緊張しつつ雑誌の趣旨や全体のイメージをぎこちなく説明するのをそれほど身を入れるでもない様子で聞いていた彼がいきなり、「創刊0(ゼロ)号を出そう」と言ったのには驚かされた。
 しばらくして出てきた0号の表紙デザインは端正な仕上がりだったが、表紙をめくり見開きの特集予告をみて目を瞠った。新鮮で大胆なレイアウトと誌面から飛び出してきそうなイラストのパワーに圧倒されながら、デザイナーの心意気に応えなくてはと創刊への気力充実を期したことを思い出す。
 幸い〝3号雑誌〟とならずに15年半、貝原氏の装丁とともに73号の終刊号まで続けられたのは、「正義」を振りかざしがちになる記事に、しばしばつっこみが入る彼のシニカルで複眼的なイラストに大いに助けられたと思っている。
 特に、既得権に胡坐をかき、強いものが勝つのはあたりまえと嘯く者たちを鋭く揶揄する独特のイラストは、市民運動グループのポスターやチラシへと広がり、全国を駆け巡っていった。またさまざまなミニコミ紙誌などにもイラストは勝手に転載され、一人歩きしていったのだが、腹を立てるでもなく、旅先で親しそうに話しかけられたりするよと面映気に話す素顔が印象深く残っている。

2008年12月11日

装幀という仕事 貝原浩--天野恵一 2008年12月中旬号

kbs081202_01.jpg『ショーは終っテンノー』kbs081202_02.jpg『昭和・平成・非国民運動』
kbs081202_03.jpg『戦後50年100の肖像』kbs081202_04.jpg『全共闘経験の現在』
kbs081202_05.jpg『日の丸君が代じかけの天皇制』kbs081202_06.jpg『無党派運動の思想』

天野恵一(パンフレット・エディター)
 私は、積極的に自称する肩書きは、パンフレット・エディターのみである。実に大量のパンフレットの編集をしてきたし、し続けている。貝原浩との交流は、そのパンフレット編集を媒介に積みあげられてきた。反天皇制運動連絡会のパンフレットが、その中でも最多だったと思う。天皇ヒロヒト「Xデー」をめぐる状況で、それはいくつもつくられ、集会で大量に売れた。彼は仕事としてではなく、運動の仲間として気楽に表紙絵(あるいは文字などのデザイン)を描いてくれた。そのNo.1~No.8までを一冊にまとめて本がつくられている。『「昭和・平成・非国民」運動』(軌跡社、社会評論社発売)がそれだ。Xデー状況の中で、広く読まれた貝原本は『漫文漫画 ショーは終っテンノー』(社会評論社)である。この本は社会評論社の社主と貝原と私の三人で酒をのみながらの勢いで企画された。天皇の死の直前につくられたこの不敬漫画とパロディ文(私も書いた)の本は、実にあの状況にマッチして、全国の書店に大量に配本された(社主が興奮しすぎて刷り過ぎ騒ぎとなったことをよく覚えている)。私と彼の二人の本(絵・貝原、文・天野)の本もある。『戦後50年・100の肖像』(インパクト出版会)。こういうものをもっと作っておくべきだったと思う。インパクト出版会から出ている私の本『全共闘経験の現在』から始まり、『無党派運動の思想』へと続いている運動もの、『日の丸・君が代じかけの天皇制』にいたる反天皇制運動ものも、すべて貝原が装幀してくれた。

2009年2月11日

装幀という仕事 貝原浩--菊地泰博 2009年2月中旬号

kbs090202_01.jpg『仮設縁起絵巻』kbs090202_02.jpg『FAR WEST』

kbs090202_03.jpg『道元「禅」とは何か』kbs090202_04.jpg『戸籍』

菊地泰博(現代書館)
 貝原浩さんが逝って3年半が経つ。もうそろそろ「貝原の呪縛」から解き放されてもいいのではないかと思いながら、いつも頭を過ぎる。奴ならこれはどんな装幀にしただろう、どんなイラストを描いただろう、と。
 初めての仕事は、「ビギナーズ シリーズ」の『戸籍』の本文イラストだった。著者の佐藤文明さんと3人で、ほとんど毎晩アルコールを浴びながらの仕事だった。会社も私たちも若かった。日本で初めて戸籍制度に異議を唱え、戸籍問題を広く分かってもらえた、文句なくいい仕事だったし、本も売れた。
 装幀家としての貝原さんは斑があった。タイトル写植を頼むのを忘れたといっては、書き文字にし、校正刷りで、何かおかしい、よく見ると、言偏の横棒が一本多いとか、点が一つ少ないとか、よくあった(むろん、版下で気付かない編集者も問題なのだ)。にゃーと笑い「ゴメン!」と言われると、「まー仕方ないか」と、やり直しになってしまうのは、彼の人徳というものだろう。ニクメないんだよね~。
 貝原さんと池田浩士さんの、「東西両ヒロシ」の『仮設縁起絵巻』や自著『FAR WEST』はさすがに力作。反権力の弁護士、遠藤誠先生の遺作になる、道元禅師の「正法眼蔵随聞記」の全訳解説『道元「禅」とは何か』(全6巻)は、今も、多くの人に読まれている。
 どんな分野も器用にこなすが、気が入らないと手を抜き、興に乗ると勘定度外視し全力投球する、貝原さんが懐かしい。

2009年3月11日

装幀という仕事 貝原浩--中西昭雄 2009年3月中旬号

kbs090302_01.jpg『文学史を読みかえる5 「戦後」という制度』表紙(2002年3月)kbs090302_02.jpg『一九四八年』(『ペンギン・クエスチョン』1984年3月号)
kbs090302_03.jpg『黄金郷』(同83年12月号)kbs090302_04.jpg『白浪五人男』(同84年5月号)
kbs090302_05.jpg『蝙蝠』(同84年9月号)kbs090302_06.jpg『関東大震災』(同84年10月号)

中西昭雄(寒灯舎編集人)
 月刊誌『ペンギン・クエスチョン』(1983年9月号~84年12月号、現代企画室)を編集していたときに、貝原浩さんに雑誌の最終ページに戯画「仮設縁起絵巻」を描いてもらった。全共闘時代に多くの読者をもった『朝日ジャーナル』をもじって、「報道・評論・解説・冗談」をモットーにした雑誌だったが、「冗談」部分の構想がなかなか浮かばなかった。そんなとき、天野恵一さんの紹介で貝原さんに会い、最終ページをお願いすることにし、創刊3号から掲載した。
 貝原さんの戯画は、小手先の軽いタッチのものでなく、日本近現代史の底流や暗部を群像で構成するもので、丁寧に読み込んでいけばいくほど、そのエスプリと批評精神がやっと納得できるもので、好評だった。たとえば、「一九四八年」は、中央で唄う美空ひばりを、坂口安吾、太宰治の戯作派の作家、復員姿の児玉誉士夫、「踊る宗教」の北村サヨ、「パンパン嬢」、浮浪児がとりまき、自動車の陰では東条英機が命乞いをしている。このたった一枚の戯画で、「一九四八年」という年の世相史を浮き彫りにしていて、その力量と努力は並大抵のものではない。この雑誌は残念ながら16号で休刊になり、貝原さんの戯画は14回で終わってしまった。それまでの戯画とともに、池田浩士さんが文をつけて、単行本『仮設縁起絵巻』(現代書館)が刊行された。また、栗原幸夫さんや池田さんが中心になった「文学史を読みかえる研究会」の講座(全8巻、インパクト出版会)の表紙でも近現代史を色彩絵巻にしている。

2009年4月11日

装幀という仕事 貝原浩--松田健二 2009年4月中旬号

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kbs090402_05.jpgkbs090402_06.jpg


松田健二(社会評論社代表)
 貝原浩画伯と最初に会ったのはいつごろだろう。近所の出版社・風濤社で高橋行雄さんに紹介されたのは記憶している。聞けば、芸大出身で、相撲部だったとのこと。収入の安定している某新聞社の定期的仕事を断って、好みの仕事しかしないという紹介だった。
 さらに聞けば、父上が倉敷市水島にある第四福田小学校(四福)の校長を務めていたとのこと。四福こそ私の卒業した小学校だ。それ以来、貝原浩画伯との交流がはじまった。
 一九七九年十月、いいだもも氏をはじめ、多くの方の協力をえて、「歴史・文化・理論」という副題をもつ季刊雑誌『クライシス』を刊行しはじめた。
 一九九〇年一月に四〇号を刊行して終刊となった。現在の方がはるかにクライシス(危機)状況であり、クライシスというには、少し早すぎたのか。同誌の第九号(八一年秋、特集・次は何か「昭和」の総括)から、二五号(八六年冬、特集・「ハッピー・ニッポン」のウラおもて)まで、装幀をしてもらった。特集名を聞いただけで、ピッタリとした絵を描きあげる感性には、舌をまいた。
 単行本の装幀では、八三年七月に刊行した池田浩士表現論集『ふぁっしょファッション』が、一番記憶に残っている。
 そして、なによりも貝原画伯が小社に残してくれた宝は、漫文・漫画『ショーは終っテンノー』(貝原浩偏画)、昭和天皇のゲケツ報道と同時に企画し、八八年十月に刊行した。

2009年7月11日

装幀という仕事 貝原浩--羽田ゆみ子 2009年7月中旬号

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羽田ゆみ子(梨の木舎)
貝原さんは、毎晩のように神保町の「萱」で飲んでいた。その前に梨の木舎の隣の部屋、M 企画印刷の前澤奈津子さんのところによることが多かった。「なっちゃ~ん」といいながら階段を登ってくる。夏だと下駄を履いている。モルタルの建物は音が筒抜けだった。
シリーズ「教科書に書かれなかった戦争」では、7点頼んでいる。最初の作品は、『天皇の神社「靖国」』で、パレードする日の丸の目をもつ皇国少年が描かれたシンプルでシャープなイラストだった。3刷りで品切れになる。PART11『川柳にみる戦時下の世相』は、鉢巻を巻いた女の子の顔の隣に、川柳「長期戦神社このごろよく儲け」とあるデザイン。軽く楽しんで描いたと思わせるイラストで、わら半紙の切れ端(と思うようなところ)に、書かれていた。同25『忘れられた人びと』に使われた少女の絵は、写真のような精密さで描かれていて、思わず息を飲んだ。まっすぐに前を見詰める少女のまなざしに、目が釘付けになった。『颯爽たる女たち』には、90過ぎて現役で活躍する女性たちが12人登場する。カバーには、華麗な百合の花の油絵が使われた。年を重ねた、「花のような女性たち」への敬意だと、わたしは受けとめた。
「旅行ガイドにないアジアを歩く」シリーズのコラージュ、『海外でつくった!人の輪・仕事の環』の色遣い、組み合わせには、貝原さん独自の世界の表現がある。直感で形を掴む人との仕事は、わたしたちに多くのものを遺していった。

2009年9月11日

装幀という仕事 貝原浩--池田浩士 2009年9月中旬号


池田浩士
一九九五年春に船出した「文学史を読みかえる」研究会は、九七年から二〇〇七までの十年間に、研究成果を全八巻のシリーズとして世に問うた。全巻を通じて黄色を主調とする大胆なデザインのカバーが特徴的で、日本文学業界では「現代の黄表紙」なる異名を取って注目されたという。この鮮烈な装幀を手がけてくれたのが貝原画伯である。どの巻も、そのテーマにピッタリの装画で、絵からもロゴからも構図からも、それが魂を込めた仕事の成果であることが、痛いほど伝わってくるものだった。残念なことに、第七巻が出たあと、画伯はこの濁世に私たちを置き去りにしたまま他界し、最終巻だけは、以前にあるポスターの原画として描かれた絵を、お連れ合いの世良田律子さんからお借りして、発行元・インパクト出版会の深田卓さんがカバーを仕上げた。
私個人が画伯と知り合ったのは八〇年代の初めごろだったが、一緒に本をつくろうという話を持ちかけてくれたのは画伯だった。八五年「9月13日金曜日」第一版発行と奥付に明記されている『仮設縁起絵巻』(現代書館)がそれである。爾来、画伯の装幀で刊行された私の本は、単著だけで七冊を数え、共著ではその数倍に及ぶ。とはいえ、画伯に装幀してもらう嬉しさは、じつは苦しさでもあった。中身の文章よりも、本のデザインのほうが、間違いなく優れているのだ。画伯なきいま、私の畢生の課題は、自分の余生が尽きるまでに、何とかして画伯の絵に追いつけるような文章を書くということだけである。

2009年10月11日

装幀という仕事 貝原浩--高橋行雄 2009年10月中旬号

高橋行雄(風涛社前社長)
変装の技術」という本を出すことになった。「おもしろそうだな、俺がやる」という勇者が現れ、「ふさわしいデザイナーを知っているぞ」との前触れをぶらさげて登場してきたのが貝原さんだった。
もう30年前のことで古い話である。
これまで、どこで、どんな仕事をしてきたのですか、とたずねると、"N新聞社が読者サービスに出している、暮らしの知恵のようなことを中身とした月刊誌のアートディレクターをやってきたのだが、もう飽きたな"といい、これからは本の装丁のような仕事をセンモンにしたいな!と叫んだのであった。
そのころ、本作りは、それぞれの会社(小さい出版社)の一人の編集者の仕事で、本文用紙や見返し、扉の資材の選定から手配、表紙、カバーのデザインから印刷所の指定など、忙しげにやっているものであった。「満員電車に割り込むようなもんだな!無茶はよせ」と引き止めたのだったが、貝原さんの気持ちは強く、「芸大のとき、相撲部にいて唯一人リーグで勝ったことのあったのは、オレだけだ」というのをきき、強そうに見えたので、口説きは、それまでだった。
その貝原さんは、初志を貫き立派な貝原ワールドをつくったのは周知のとおりだ、相撲部の仲間に逢ったときのこと「彼の得意技は何でしたか?」「打っちゃりだったな」の答えが返ってきた。

2009年11月11日

装幀という仕事 貝原浩--木村まき 2009年11月中旬号

木村まき(元編集者)
 遠目でもわかる。イロが、カタチが「貝原だぁ」と主張している。においが漂うどころではない。もちろん、引き出しは沢山あるのだが。
 さて落合恵子著『こころの居場所』いかがですか。淡路町画廊での個展で、我が家に連れて帰りたいと思ったウツギの絵がカバー。一面に咲いているが静謐な世界。貝原さん自らこの作品を選んで仕上げた。手触りのよい用紙で、落合さん提唱の私権の思想と行動が心の奥まで届く。私が貝原さんに装幀を初めて依頼した本であり、本書を皮切りに、社では貝原装幀本が、続々ととめどなく誕生。
 木村亨の『追悼本』と『全発言』。追悼本カバーと表紙には、すぐにはそれと気づかぬよう、人権の文字を大きく筆で書き、デザイン化してある心にくさ。カバーの肖像画は木村を偲ぶ会を開くにあたり描いていただいた絵を加工したもの。会には貝原画伯も出席。司会者の紹介に、黒いTシャツ姿でのっそり立ち、おじぎした。まさに含羞の人。
 ぶ厚く重い『全発言』。渾身の装幀と本文デザインで支えきった。表紙のインパクト性は言わないでおこう。手に取りご自身の目でどうぞ。カバー写真は、木村が愛妻にだけ見せてくれた表情。
 依頼から刊行まで、酒はつきもの。一献で済むはずもなく。ああなつかしや。
 装幀については語り尽くせない。貝原浩。色使いの名人。つまり色男なんだね。金と力は――?

2009年12月11日

装幀という仕事 貝原浩--佐藤英之 2009年12月中旬号

佐藤英之(批評社代表)
貝原さんにお会いしたのは、1980年の暮れの頃、パロル舎の石渡社長が本郷に連れて来られたのが始まりで、真っ赤なブレザーにジーパン姿で、骨太の体格によく似合っていた。フランス帰りで一見派手な格好をしていたが、繊細なタッチで描かれた油絵を見ているとこの人の何処にそんな才能が隠されているのか不思議でならなかった。さっそく装幀をお願いしたのが『批評精神』の創刊号で、これは5巻でお終いになり『合本批評精神』」として纏めることにした。その頃、貝原さんは西荻窪の踊りのお師匠さんの二階に仕事場を間借りしていて、天井から色とりどりの和服がぶら下がっている中を縫うようにして二階に上がるのだが、眼の前がこけし屋というレストランでそこの喫茶室でよく打ち合わせをした。貝原さんが版下の色指定を説明していると、ポロリとイラストの欠片が剥がれて床に落ちてしまった。すると彼はその欠片を拾って、一瞬の迷いもなく版下に貼り付けた後で、「これでもいいか」と言っていた。これは『むくの木の詩』という本の装幀で、2色でありながら紙の色を計算して4色にも見える装幀をしてくれた。自分でも「これは秀逸だ」と言っていたくらいだから、出来上がりは予想した以上によくできていたのだと思う。貝原さんの装幀は、装幀というよりも絵に近い。一時、和筆に凝っていた時期があって、「貝原さん、今回は筆ではなくてペンか鉛筆でお願いできますか」と言ったら、「そこまで言うか」と言われてしまった。

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